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革命の戦士、永遠の労働者解放の戦士、イスガップ議長を追悼する! 6月アジア共同行動資料


きたる、6月アジア共同行動に韓国ゲストが参加予定ですが、そのなかの一人に昨年末に亡くなられたイスガップ先生のご子息が同行します。

AWC韓国委員会代表であり、かつ国際組織AWCの共同代表である、ホヨングさんが左派労働者会の機関誌「月刊左派」2014年2月号に投稿した資料をここに掲載します。6月アジア共同行動資料としてのものです。

さる韓国CCB開催時、イスガップ先生への墓参行事では、その墓前で朗読されたものです。


「月刊左派」2014年2月号から

革命の戦士であるとともに、永遠の労働者、李壽甲さんを追悼する

ホ・ヨング(AWC韓国委員会代表、左派労働者会代表)

2013年12月22日、朴槿恵政権はストライキ中の鉄道労組執行部を逮捕するという理由で、警察5千人を動員して、民主労総が入っている京郷新聞社ビルをハンマーで破壊しながら乱入した。この光景をテレビの生放送で見守っていた89歳の年老いた李壽甲先生は、憤激を抑えることができずテレビを消してしまった。その日の夜から健康が急激に悪化し、翌日には病院に入院し、一日後の24日にこの世を去ってしまわれた。鉄道労組名誉組合員であることを誇らしく思っておられた先生は、怒りで目を閉じることもできずに亡くなられた。いくら親しい同志間でも、運動方式と路線に誤りがあれば、「組合主義」「日和見主義」と指摘された方だ。特に非正規職労働者と女性労働者が差別されているのに立ち上がらない現場組織は「御用」だと断固として語られた。

健康悪化は1年前から始まった。鋼鉄のように強かった先生は、リュックサックを背負って、鉄道労組の全国の事業所を回りながら、後輩労働者たちを励まされた。2012(訳注:2011)年下半期は、済州海軍基地反対闘争のために数回にわたってカンジョンに行き、野宿闘争も辞さなかった。その時にひいた風邪によって、先生の健康は急激に悪化した。左派労働者会が、先生の一生を中心に帝国主義反対、労働解放、社会主義建設など60年以上の近現代史を記録しようとしていた数回の試みも困難に直面することになった。そのようななかで突然この世を去ることになったために、悲しみや痛みは置いたとしても、生きた歴史が消失したのである。組織を保存し生き残って闘うために記録と資料を残さなかった革命家の口述をこれ以上聞くことができなくなって残念である。

先生は、日帝植民地支配の時期である1925年3月25日に慶尚南道の梁山で貧しい小作農の息子として生まれた。19歳になった1943年には日帝の強制徴用によって鎮海の海軍施設部に連行され強制労働をさせられた。1945年解放とともに、李壽甲青年は革命の戦士として自身の人生を選択した。ただちに朝鮮共産青年同盟に加入した。その年、釜山鉄道局輸送係の職員として就職すると同時に、1945年11月1日に創立された鉄道労組に加入して労組活動を開始し、社会主義運動も並行して担った。当時、成人の3分の2以上が社会主義体制を望んだという時代の様相に照らして当然のことであっただろう。1945年11月、16の産業労組、1194の分会、21万7千人以上の朝鮮労働組合全国評議会(全評)が建設されると同時に、鉄道労組組合員の李壽甲青年は当然に全評に所属することになった。1946年5月には組合員が60万人以上に達した。全産業の労働者が200万人を少し超えていた点を考慮すれば、全評の組織率は30%に達する数値だといえる。1946年8月、全評所属の和順炭鉱の労働者1千人以上が8.15行事に参加することを妨害するために米軍政が発砲して虐殺を強行した。この過程で大韓労総は親日派警察と一体となってテロと虐殺を強行した。これが導火線となって釜山鉄道労組が9月23日に先導ストライキに立ち上がり、全評は1946年9月24日に歴史的な全国ゼネストに突入した。鉄道労組4万人の組合員がストに立ち上がり、全国の鉄道は麻痺した。李壽甲先生は鉄道労組の用品事務所分会長として、ストライキに突入時に港に停泊していた船で合図の汽笛を鳴らす役割をはじめとしてストライキの中心で活動された。

1週間以上続けられた全評のゼネストには、組合員25万人と未組織労働者5万人等、30万人以上が参加した。9月30日、機関短銃で武装した警察と大韓労総幹部、そして右翼団体の攻撃によって2人が死亡し、1200名が逮捕された。釜山から始まった全評ゼネストは10月1日、大邱で米軍政に向かって「コメ寄こせ」と要求する民衆抗争へと引き継がれた。米軍政はただちに戒厳令を敷き、米軍と警察を動員して無慈悲に鎮圧した。この過程で17名が死亡するのだが、李壽甲先生の実の弟も殺害された。全評がストライキに突入すると同時に掲げた要求は、コメ寄こせ、賃金引上げ、工場閉鎖反対、解雇反対、労働運動の自由を保障せよ、投獄中の民主主義運動家の釈放、指名手配と逮捕の撤回などであった。

それ以降、李壽甲先生は、1946年11月、朝鮮人民党、朝鮮共産党、南朝鮮新民党など3党が合同して結成された南朝鮮労働党(南労党)の慶尚南道組織責任者を担うなど幹部として活動しつつ、米軍政と李承晩政権に立ち向かい屈することなく闘争した。李壽甲先生は、1947年2月に逮捕され、北釜山警察署に収監された。先生は南労党の釜山ヨンド区の組織責任者、南労党釜山市党の鉄道労組組織担当責任者を担い、慶南道党の地下活動、慶南道党の労働運動責任者の地下活動をし、朝鮮戦争が終わった翌年である1954年7月に拘束された。1960年4.19革命の後には社会党の慶南道党の党務委員と蔚山支部長を兼任し、進歩党発起委員、進歩党の慶南道党組織次長、民族自主統一協議会活動をし、朴正煕軍事クーデター直後の1961年に拘束され釜山陸軍刑務所に収監された。拘束の他にも、27年間の指名手配、数回にわたる水拷問と電気拷問を耐え抜き、自信の信念を守ってきた。

全評は1946年9月ゼネスト以降にも、1947年3月22日の一日ストライキ、1948年2.7救国ゼネスト、5.8単独選挙反対ゼネストなど、絶え間ない闘争を展開したが、米軍政と親日残滓勢力の野蛮な暴力を克服できず、1950年朝鮮戦争を経る中で徐々に消滅していった。しかし歴史に断絶はないものだ。李壽甲先生は全評が構成員たちに下した最後の指針が「創意性を発揮して各自の組織で活動せよ!」だったと、われわれに話してくださった。おそらくは亡くなる日まで、その指針を胸に抱いていらっしゃっただろうと確信する。

他方、1946年3月、全評に対抗して反共と勤労者福利の増進を掲げて総裁の李承晩、副総裁の金九、初代委員長の洪允玉を代表として大韓独立促成労働総同盟(大韓労総)が設立された。大韓労総は1947年12月、社会主義国家が抜けた資本主義国家の国際的連合団体である国際自由労組総連盟(ICFTU)の創立会員として参加したこともある。大韓独立促成労働総同盟は、朝鮮戦争によって活動が中断されていたが、1953年に労働組合法をはじめとした労働3法が制定されるにともなって1954年4月8日大韓労働組合総連合会へと改称し、以降1960年11月韓国労働組合総連盟(韓国労総)へと改称されて今日に至っている。今、韓国労総のホームページの沿革紹介の欄を見れば、『1947年12月、全評の第1,2次全国ゼネストを契機に(韓国)労総が労働界を掌握、民主労働運動の基盤を確立』したと整理されている。米軍政、親日警察、大韓労総幹部と右翼団体の暴力団が踏みにじった歴史的な全評ゼネストはこのようにゆがめられている。分断イデオロギーに妨害されてこの時期の歴史を無視したり、タブー視したりする過程において、歴史は消え去り、あるいは歪曲されている。

李壽甲先生は、1987年以降、民族正気守護協議会の議長を担われ、1990年には文益煥牧師と一緒に自主統一民族会議の共同議長を担われたこともあった。そして1995年「米日帝国主義のアジア侵略と支配に反対するアジア共同行動(AWC)」第2次総会に参加したのちに、AWCと交流を続け、1999年にAWC韓国委員会を建設し議長を担われた。2000年には民主労働党の創立の初期に顧問を引受けられた。

何よりも李壽甲先生は、自身が労働者であり、鉄道労組組合員であることを忘れなかった。全評とともに壊滅したかのように見えた鉄道労組は、半世紀を超える独裁と御用のくびきから抜け出し、民主労組として再び立ち上がった。3重の間接選挙制によって御用労組であった鉄道労組内に、直接選挙制を闘い取る闘争が展開された。2000年1月14日、「代議員は組合員の直接・秘密・無記名投票で選出せねばならない」という最高裁判決を受けた。12日後には全面的「直選制を闘い取るための共同闘争本部」が結成された。そして2001年1月21日、鉄道労組史上初の直接選挙制が実施され、これによって委員長を選出することになる。2002年2月25日には、鉄道、発電、ガスの共同3社ゼネストであると同時に民主労総ゼネストであるゼネストを断行する。2005年11月、鉄道労組は李壽甲先生を鉄道労組名誉組合員に委嘱した。実に60年ぶりの組織復帰であった。李壽甲先生は、鉄道労組の歴史を後輩労働者たちに知らせる活動を開始され、大韓労総の御用鉄道労組の創立記念日のままになっていた鉄道労組創立記念日を、民主鉄道労組の創立記念日へと回復させるにあたっても役目を果たされた。直接民主主義を回復した鉄道労組は、以降、短い期間の数回のストライキを行ったが、組合員や執行部みずからも考えもしなかった2013年12月の鉄道私有化(民営化)阻止のための23日間のストライキを繰り広げることができた。全評の時期の鉄道ゼネストと比較することはできないが、実に67年ぶりの大事件であった。

李壽甲議長は苦難と乏しい環境の中でも、日帝時代の徴用時から亡くなるまでの70年以上の歳月を、変わらぬ信念で「創意性を発揮して活動」した。革命の戦士であり、帝国主義反対と労働解放の道をひたすらに駆け抜けてこられた李壽甲先生は、鉄道労組ゼネストを破壊しようとする資本独裁政権の暴力を見守りながら、悔恨と怒りを残したまま生を終えられた。李壽甲先生は御用労組を破壊する組織家(オルグ)として活動した。それだけに民主労総に対する立場も断固としていた。亡くなる直前でも、今の民主労総は労働者階級をきちんと代表していない上に、帝国主義と新自由主義を粉砕して労働解放を闘い取ることができない状態に至っていると力説された。特に、民主労総の端っこに永く身を置いてきた筆者に対して常にこの点を強調されたし、まともな労働運動を展開することを注文された。

変革性、民主性、自主性、闘争性、連帯性が消え去った労働組合と、資本に取り込まれてしまった労働者階級は、この野蛮の新自由主義的金融資本主義と帝国主義を決して打ち勝つことができないという叫びを私に残して逝かれた方、李壽甲先生、どうか安らかにお眠り下さい!

関連資料

» 革命の戦士であるとともに、永遠の労働者、李壽甲さんを追悼する(PDFファイル・約296KB)

李壽甲さん・その1

李壽甲さん・その2

李壽甲さん・その3

李壽甲さん・その4

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